ラズリ

特別医務室は、北棟二階の一番奥にある。常に消毒液と陰気な医療品の臭いがするので、普段は滅多に近寄らない場所だ。ラズリは照明もほとんどない、薄暗い午後の廊下を、短い黒髪を跳ねさせながら走っていく。ラズリ以外には、看護師も患者も見当たらない。
その部屋までは、難なく辿り着いた。ラズリの部屋の引き戸よりももっと古くて重たそうな、黒い引き戸の敷居部分には、灰色の埃がぎっしり詰まっている。「特別医務室」と書かれた紙は黄色く黄ばんで、今にも扉から剥がれそうだ。  
ノウェムに教わった通り、右手を丸め、ドアを軽く叩く。ほんの少ししか力を入れていないのに、ドアはがたがたと激しく揺れた。
「すみません、誰かいますか」  
ラズリはそう声をかけ、しばらく耳をすませたが、返事はない。それどころか、中で何かが動く気配すら無かった。
(本当に、新しい患者なんているのかな)  
扉にはめ込まれている曇りガラスの窓は、ラズリの背では位置が高すぎて覗き込めない。何度か飛び跳ねて扉の向こうを見ようとしたが、ただ硬い床に足の裏を打ちつける徒労に終わった。ラズリは困って、うなじを掻きながら扉を見上げたが、「特別医務室」の黄ばんだ紙が言葉もなく見つめ返してくるだけだ。
しびれを切らしたラズリは、扉の取っ手に手をかけた。
「あの、すみません……」
そっと開けたはずなのに、扉はガラガラとけたたましい音を立てて開く。細い隙間から中を伺うと、埃っぽい床に、小さなラック、大きな机、無機質な椅子、大量の薬や応急セットの入った棚が、じっとラズリを見つめ返してくる。あまり光の入っていない北向きの窓が、医務室の奥でかすかに白く光っていた。
その窓のそばに、見慣れたアイボリーのカーテンで仕切られた空間がある。
ラズリは足音を忍ばせて、そのカーテンに近寄った。埃が、裸足の裏にざらりと当たる。乱雑に置かれっぱなしの机や椅子を避けながら、ラズリは吸い込まれるようにカーテンのもとへ辿り着く。
ラズリの浅い呼吸音だけが聞こえるような、張り詰めた静寂の中で、カーテンを引く音だけが鋭く、短く響いた。
最初に視界に飛び込んできたのは、目の覚めるような、赤。
短い夏の始まりを告げるグミの実を思い出させる、鮮やかな果実の色だった。ラズリの黒い短髪とは全く異なる、作られたような赤に、ラズリは一瞬どきりとして息を呑む。
燃えるような赤毛は短く、その下にあどけなさが残る少年の寝顔があった。青ざめた顔と首筋があり、腕には大量の管が繋がれている。管たちはそれぞれの薬剤の瓶に差し込まれ、薬剤がゆっくりと患者の身体を侵食していた。
少年は身じろぎひとつせず、その侵食を受け入れている。
「あなたが、グミ」
固く閉じたまぶたは、ラズリがそう呼びかけても何の反応も見せなかった。ただ、薄い胸が白い毛布とミントグリーンのパジャマの奥で規則正しく上下しているだけだ。それは今朝の秒針のように規則正しすぎて、ラズリはおかしな錯覚を見ているような気分になる。
どうしよう、とラズリはまたうなじの傷痕を引っ掻いた。あまりにも昏々と少年が眠っているので、本来の目的―――つまり、ここに来る前の昔話をしてもらう、という目的を達成する気力を失くしかけていた。無理やり起こすのが気の毒なほど、か弱い少年だった。
(やっぱり、今度にしよう。もしかしたらこの子も、病気になる前のことは何も覚えていないかもしれないし……)
うつむきつつ踵を返したところで、突然、頭の上から険しい声が降ってきた。
「ここで何をしているの?」
「えっ、あっ!」
体が反射的に飛び跳ねるほど驚いたせいで、ラズリの足は雑に置かれていた小さなサイドテーブルに引っかかった。それに足を取られ、堪えきれず埃だらけの床につんのめって転ぶ。ガシャーン、と耳を覆いたくなるような大きな音を立てて、あっという間にテーブルとイス、薬瓶が床に散乱した。
床にうつ伏せたラズリが恐る恐る顔を上げると、肩を怒らせた若い看護師の女が、膨れ上がってはち切れそうな怒りを顔に含ませてラズリを見下ろしている。
「どうしてここにいるの? 誰が許可したの!」
看護師は呆れと怒り、両方が等分に混じった顔で、低い声で問うた。ラズリは肩を縮こませ、
「すみません」
とつぶやくように言うことしかできない。
「グミは怪我をしているから、しばらく安静にしていなければならない、とノウェムから聞かなかった? 全く、姿が見えないから探してみれば、また余計なことをして、これだから――」
頭上から降ってくる粘度の高い説教が、唐突に途切れた。訝しんでラズリが顔を上げると、看護師はある一点を凝視したまま、人形のように動かなくなっている。半開きの口、埃だらけの白衣、それらが、時が止まったように静止していた。いや、彼女はわずかに震えていた。まるで最悪の事態を目にしたかのように。
「あの……?」
ラズリは床に伏せたまま、看護師の視線を追う。そしてわずかに息を呑んだ。
北側の白く光る窓を背に、ベッドの上に身を起こした少年の姿がある。逆光で表情は見えないが、目に刺さるような赤毛は、午後のにぶい日差しを受けて一層赤々と輝いていた。
少年は自分の腕に繋がれたいくつもの管と注射針を見下ろすと、おもむろに口を開いた。
「……これは何?」
想像よりもずっと低い声が、医務室の床を這うようにやって来る。隣で看護師が固唾を飲んだ音すら聞こえるような沈黙の後、少年が再び問いかける。
「ぼくは……お前たちに捕まったのか。ぼくを殺すつもりだな」
「……違うわ、落ち着いて……足が折れているから、動かないで。君は山で遭難していたの。私たちは君を保護したのよ。今は薬で混乱しているだけ」
少年は、看護師の言葉を信じてはいないようだった。目を細め、つと辺りを見まわすように窓の方を振り向く。その瞬間、ラズリは少年のうなじに、奇妙な傷痕があるのに気づいた。
(あれ)
思わず、自分のうなじの傷痕を触る。癖で何度も引っ掻いたから、いくつかミミズ腫れのできてしまったあの傷痕だ。自分のそれとグミのうなじの傷痕の形が酷似しているような気がした。グミの傷はもっと生々しい。火傷をした後のように、皮膚が円形に爛れている。
ラズリがその傷痕を見つめていた時、カタ、と小さな音が傍らで鳴った。見ると、看護師が意を決したような顔で透明な液体の入った瓶を机から取り上げていた。そして突然、何の前触れもなく瓶の中身を、グミの注射痕だらけの痛々しい腕に撒き散らした。
「ギャアアアアアアァァァッ?」
グミの、喉の潰れるような悲鳴。
その声を聞いた瞬間、ラズリは今朝遠くで聞こえた絶叫を思い出した。痛々しく、悲しく、聞いたものに本能的な恐怖を植えつける、あの声だった。
「グミ、待って! わたし、今朝のことを聞きたくて――」
少年はもう何も聞いていなかった。注射針を抜き、管を引き裂き、薬瓶を振り払う。火傷をした腕を庇う素振りもない。細い腕に薙ぎ払われたいくつものガラス瓶が床に落ち、けたたましい音を立てて散乱した。
「グミ、聞いて……!」
「ラズリ、この子を押さえてっ!」
看護師はラズリの怯えと困惑を無視し、意を決して、暴れる少年の細い腕をがっしりと捕まえた。ラズリはその光景を、ただ早鐘のように打つ心臓の音を聞きながら見ていることしかできない。
「誰か呼んできてよ、ラズリ!」
「でも……!」
「早く!」
言いながら看護師は、グミの細腕を握る手に一層力を込めた。彼女は決して体格がいい方ではなかったが、たったいま負傷した右腕のせいで、グミは不利だった。だから――だからこそ、ラズリには理解できなかった。養護院の看護師が患者に直接手を上げるような場面は一度も見たことがない。まして、さっきまで昏睡していた子どもになんて。
看護師はラズリが今までに見たこともない感情を、その顔に浮かべていた。目を血走らせ、手を震えさせ、必死に歯を食いしばって患者を押さえつける原動力となる感情を。
彼女はグミを、ひどく恐れているように見えた。
「ラズリ!」
はっと我に返った時には、すでに看護師の腕にいくつもの歯型と赤い血が滲んでいた。
「何の騒ぎです? ――まあ! 何てこと……!」
にわかに入り口の方が騒がしくなる。視線をやれば、何人かの看護師が騒ぎを聞きつけて駆けつけてくるところだった。一様に慌ただしく駆け込んでくる白衣たちは、次々にベッドの傍にやってきて、暴れるグミと若い看護師の間に割って入る。両腕を掴まれ、グミは怒鳴った。
「離せ! ぼくを殺す気なんだろう! ぼくたちを皆殺しにする気なんだろう? ぼくが、ぼくたちがお前たちに何かしたか!」
「静かにしなさい、傷に障る!」
駆けつけてきた看護師のなかには力の強い男もいて、グミはあっという間に怪我をした看護師から引き剥がされた。ラズリはしきりにグミに声をかけたが、グミは興奮しきっていて何も耳に入っていない。激しく手足をばたつかせ、何とか拘束をかいくぐろうと身をよじりながら叫んでいる。
「お前たちの方がぼくたちを迫害したんじゃないか! どうしてあのまま生かしてくれなかった! どうして皆から故郷を奪ったんだ! ぼくが、ぼくたちが――」
「やめろ!」
ぎょっとして誰かが声を上げたが、その制止は、空砲のように意味を為さなかった。

「ぼくたちが人間じゃないからか!」

グミがそう言い放った瞬間、ずるり、とラズリの腕からグミの右腕が抜けた。それはすでに少年の腕の形を留めていない。爛れた皮膚がうねり、産毛がざわりと逆立つと、その肉と骨がまるで山のように隆起した。産毛は一本一本が太くなり、血を思わせる赤い毛皮になった。口が真横に大きく裂け、目がつり上がり、耳は赤毛で覆われ三角形に尖る。
巨大な一頭の狼とも、熊ともつかない怪物が、目の前に二本足で立っていた。
そして、養護院の看護師たちは驚きではなく、諦めに満ちていた。驚いていたのは、ラズリ一人だけだ。
「人狼だ。目覚めてしまった」
誰かがぽつりとため息のように零した。
「記憶処理薬が効いていないなんて」
「まだ幼生のはずなのに」
「誰か、銃を……」
看護師たちはどよめきながら恐れをもって遠巻きにし、数人が部屋から一目散に駆けだす。
ラズリは目を見開いたが、すでに目の前の光景は目に入っていなかった。脳裏に浮かんでいたのは、毎朝忘れていく悪夢だ。
自分が変身していく夢。そしてそれは、たったいま目の前で起こったことに酷似している。
「ラズリ!」
看護師の集団の中の一人が、不意に金切り声で呼んだ。その瞬間、我に返る。悲鳴があちこちから上がっていた。咄嗟にグミの姿を探すが、何処にも見当たらない。
振り返ると、それはあった。
瞳孔の開いた自分の両目が、一瞬映ったそれをはっきりと捉えた。手だ。だが、人間の手ではない。赤毛に覆われた、黒い五本の鉤爪だ。それらはしっかりと磨き上げられた黒曜石の刃のように研ぎ澄まされ、触れただけで皮膚が裂けそうなほど鋭利な輝きを放っている。犬の爪よりも大きく、尖ったそれがラズリの鼻面と頬を掠めた瞬間、頭の上から、憤怒に燃える吐息と共に、低い唸り声のつぶやきが降ってきた。
「裏切り者」
ラズリははるか後方に突き飛ばされ、背と頭をしたたかに打った。顔の傷から生温い液体がどろりと滑り落ちる。かたく閉じたまぶたの裏にいくつも星が散り、今朝の悪夢が脳裏にひるがえって浮かんで消える。否、それは悪夢ではなかった。どうして今まで忘れていたのか不思議なほど鮮明な、ラズリの記憶だ。
分数の計算と、洗濯の方法と、花壇の世話と、料理の仕方とに埋もれて、思い出す方法も奪われていた、本当の自分の記憶だ。
北向きの窓の光に手をかざすと、見慣れてしまった自分の手に塗れていたのは、赤ではなく、生温かい群青だった。そしてその指の隙間に、ラズリと同じ青い血を流し、ぐったりと倒れている赤毛の獣と、まだ煙の上がる銃口を降ろした狩人の姿が見えた。
「ノウェム……」
突き飛ばされた姿勢のまま、ベッドに背をもたれて、猟銃の持ち主を呼ぶ。ノウェムは一切の感情を塗り潰した無表情でラズリを無視し、部屋の中央にうつ伏せに横たわる獣の遺骸に近づき、背後で立ち尽くす看護師たちへ声高に言った。
「記憶処理剤の投与が少なかった。ケシの薬も足りていない。これでは、人狼を酔わせられない。カルテ通りに処方したの?」
「院長が、幼生だから八割で処方しろと……」
「私の言うことを聞かないから、貴重な人狼を一頭無駄にした。くれぐれも、院長にそう報告して」
そして視線を上げてはじめて、ノウェムは倒れたラズリに気がついたようだった。だが顔に深い傷を負い、人間のものとは思えない真っ青な血を流しているラズリを見ても、彼女は眉一つ動かさない。そしてその目は、あの慈愛というには違和感のある含みをもった目だった。
「ラズリは、グミのように愚かじゃないと信じているわ」
「……なんの、話……」
「古くからこの地に棲む人狼は、開拓者を襲い人肉を喰っていたのよ。だから開拓者たちにとって駆除すべき存在だった。でも薬で酔わせ、自分が獣だったという記憶を取り除く『治療』をすれば、人間になることが分かったの。ここは、人狼を治療するために造られた施設よ」
ノウェムはおもむろに、狩猟用のコートの胸ポケットから何かを取り出した。黒い革手袋の指先につままれたそれは、古びてはいるが、確かに銀色に輝く正円だ。
「人間でいることは幸福よ、ラズリ。あなたの獣の部分が、どうして人間になることを拒むのか、私には分からない」
「……」
沈黙を守るラズリの手を、ノウェムは羽でくるむようにそっと握った。
「でも大丈夫。真実を知ったでしょう? だから、もう抗わなくていいのよ」
「……」
ラズリは口を閉ざしたまま、ノウェムの手を振り払う。パシ、という軽い音が、二人の間に深く深く溝を作った。
そのままガラス片の散らばった床に手をつき、ラズリはおもむろに立ち上がる。ノウェムはブローチをしまい、猟銃に手をかける。
「それは間違った判断よ、ラズリ。人狼の夢を醒まさないで。私はただ、皆に幸せになってほしいだけなの」
その瞬間、ラズリはノウェムの栗色の双眸を見上げた。その虹彩に嘘偽りはないように見えた。だからこそ、彼女の細い指は猟銃の引き金を離さなかった。
そして、ラズリも引かなかった。
「何が幸福かは、自分の頭で考えて、自分の心で選ぶよ。わたしは人狼でも、人間でもない。……わたしは、ラズリだから」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ノウェムは猟銃の照準をラズリの額に合わせた。同時に、ラズリの青い目が見開かれ、短い黒髪が逆立ち、彼女の小さな体が波立つ水面のように揺らぐ。
ただ一度の銃声が、養護院を揺るがすほど響き渡った。

銃を降ろし、ノウェムは一歩踏み出す。砕け散った窓ガラスが足元でぱきりと割れる。
ノウェムの視線の先で、群青色の狼が養護院の高い塀をひらりと越え、北の森に向かって鳥よりも速く駆け抜けていくのが見えた。その後ろ姿は見る間に遠ざかり、小さくなっていく。  
ノウェムは猟銃を固く握りしめて、窓辺に立ち尽くした。
「今ならまだ、首の後ろの急所を狙えるぞ」  
窓ガラスや割れた薬瓶が散乱する床を渡って、背の高い白衣の男がノウェムの傍らに立つ。ノウェムはそちらを見もせずに、銃口を降ろしたまま答える。
「……もう弾がないわ」  
長い長い冬の始まりを告げる風が、ラズリの姿をかき消すように吹き荒れた。

0102

あとがき
この作品は、成人してから初めて賞に応募するために書いた短編です。機会があれば改稿しようと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
close
横書き 縦書き