ラズリ

夢を見る。
自分の手を見下ろしている夢だ。か細く、小さい、子どものような手。
その手のほかには、何もない。やがて手の輪郭が揺らぎ、指先が揺らいでいく。爪が伸び、黒く変色し、湾曲して鎌のように鋭く変形する。産毛が太く針のように尖り、長く伸びて手の甲を覆う。手のひらは隆起し、固く分厚い肉の山で覆われる。
わたしは口もきけず、ただ自分の体が怪物へと変化していく様子を見ている。何か他のものに自分を奪われていく恐怖が心を支配していく。自分の意識は、あとどれくらいこの体に残っているだろう。水の中の氷のように、わたしはみるみるうちに小さくなり、別の何かに覆われていく。
ぷつ、とその氷が水の中に消えた瞬間、わたしは悲鳴を上げた。

遠くから絶叫が聞こえた気がして、ラズリは唐突に目を醒ました。
まぶたの裏にこびりついた悪夢はたちまち記憶の外へ溶けて消えていったが、聞こえた絶叫は耳から離れない。
目覚めた時の姿勢のまま、ラズリはしばらく耳をそばだてていた。聞き慣れた壁掛け時計の、規則正しすぎる秒針の音だけが通りすぎる。
しばらくその音を聞いた後、ラズリは恐る恐る毛布から顔を出し、壁や天井、テーブルや椅子を見渡した。それらは未だにどことなくよそよそしく、けれど確かに見覚えのある家具たちだ。
ラズリは自分が入院している養護院の自室の、二年間使い慣れたベッドの上に寝ていた。
(……ノウェム、どこ)
叫び声は一度きりだったのか、それとも夢の中の出来事だったのか、ラズリが目を醒まして以降は一度も聞こえなかった。代わりに、まだ薄暗い掃き出し窓の外から、大粒の雨が中庭の木々の枝葉に当たる音が聞こえてくる。
雨はやがて霧雨に変わっていき、アイボリーのカーテンから透けてくる光が増してきた。明け方の叫び声は何だったのかと思うほど穏やかな晩秋の朝の空気が、部屋を満たしていく。
不意に、背後のドアがコンコン、と軽くノックされた。壁に掛けられた白い皿のような時計に目を凝らす。短針と長針の様子から見るに、朝の問診にはだいぶ早いはずだ。だが、ラズリは素早くベッドを降り、期待を込めてぺたぺたとドアに近づく。
「ノウェム?」
「――やっぱり起きていたのね、ラズリ。朝早くにごめんなさい。ドアを開けてもらえる?」
その声を確認して、ラズリはようやく親鳥と再会した雛のように安堵した。穏やかな、夏の朝風のようなノウェムの声は、ラズリの心をいつでも凪にする。
言われた通り軽い白木の扉を開くと、ぼんやりとした生温い非常灯の光が廊下から漏れた。その卵色の光を背に、豊かな栗色の髪を背に届くほど伸ばした、一人の女性が立っている。いつも整った身なりの彼女にしては珍しく、ミントグリーンのパジャマに白いストールを羽織るという無防備な出で立ちで、しかしラズリを見る目はいつも通り、絵画の中の聖母のように穏やかだ。
彼女は、ラズリの担当看護師だった。二年前、ラズリが養護院に入ってきた当初からずっと、ラズリの世話をしている。ラズリは他の全ての患者がそうであるように、自分が病気になる前の記憶を全て無くしていた。故郷も両親の顔も忘れたラズリにとって、ノウェムはずっと前から親同然の存在だ。
「おはよう、ラズリ。起こしてしまったかしら」
「ううん、わたしは大丈夫。でも何で?」
ラズリがノウェムを見上げて尋ねたのとほぼ同時に、廊下の奥の方がざわざわと騒がしくなった。普段なら静まり返っている早朝のロビーに、今は何やら人が集まっているらしい。不思議に思って顔を出そうとすると、頭一つ背の高いノウェムに、そっと肩を押さえられた。
「養護院に、新しい患者が来たのよ。ひどい怪我をしているから、見ない方がいいわ」
「……もしかして、さっきの叫び声……」
ラズリが何気なく零した途端、向かい合ったノウェムの、整った形の眉が音も無くひそめられるのを見た。滅多に機嫌を悪くしないノウェムの素振りに、ラズリは驚いて数歩後ずさる。
しかし看護師は、すぐにその表情をいつもの微笑の裏へ隠した。
「何か、聞こえたの?」
「……何でもない。たぶん、気のせい」
「そう?」
ラズリは、大人しく元のベッドの上に腰掛けた。ノウェムが部屋のカーテンを開けると、雨に濡れた窓ガラスの外に、明るい曇り空と穏やかな養護院の中庭の景色が現れる。
養護院は、ちょうど『コ』の字の形のように、東西北に三棟の建物が向かい合って建っている。南にはただ一つの門があり、物資や食材は一週間に一度まとめて届けられる。中央には噴水や花壇、芝生の広場があしらわれた広い中庭があり、冬も枯れない不思議なケシの花が植わっている。養護院の建物が全て古めかしい高床なのは、毎年のひどい積雪に耐えるためだ。夏が短く、冬が長い国の最北端、まだ開拓途中のこの土地に、開拓者たちが建てた山小屋の一部を利用して造られたのが、この養護院だった。
「その患者さんは、運が良かったね。十一月になっていたら、もう霜が降りて、雪も降って、ここには入れなくなっていたね」
ラズリがぼんやりと言うと、ノウェムは窓辺からそちらを見て「そうね」と首肯する。
「ここの冬は厳しいものね。何せ、大陸の最北端だから」
「その人は、どんな人?」
「グミ、という少年よ。燃えるような赤毛をした、賢そうな男の子だった。来年の春には、退院できるかも」
「来年の春……」
ラズリは肩を落とした。いつもそう・・だからだ。ラズリはここへ来てから二年間、一度も退院の許可が出たことはない。それなのに、自分より後に入ってきて、先に出て行く患者は数えきれないほどにいる。今となっては、ラズリは一番の古株だ。
頭の中がずきりと痛む。ラズリは顔をしかめて、こめかみを押さえた。
「まあ、そう落ち込まないで。ラズリも、来年の春こそきっと退院できるかもしれないわ」
「……うん…」
「とにかく、日課で良い点数をとればいいのよ」
ノウェムの励ましは、どこかぼんやりと遠く聞こえる。そういえば、目が覚めてからもうずいぶん経っていた。ラズリは首の後ろの傷痕を無意識に爪で引っ掻きながら、しきりに首を傾げた。
「頭いたい……」
「薬が切れてきたのね。すぐに朝食と一緒に持ってくるわ」
ノウェムは目を細めて、ラズリの頭にそっと手を置く。ノウェムのその顔を、ラズリは何度も見てきた。親が子どもに見せる表情なのかもしれない。心配そうな、けれど慈愛というにはどこか違和感のある、含みを持った表情だ。
「今日の夜から、もっと強い薬にするよう院長に頼むから、安心して」


養護院は、病院と学校の中間のような場所だ。
だから、患者はただベッドに寝て治療を受けるだけでなく、元気に歩ける者には「日課」が課せられる。それはたとえば洗濯であったり、花壇の世話であったり、計算であったり、料理であったりする。
ラズリは、慢性的な睡眠障害であることを除けば、健康な患者だった。そこまで回復すれば、計算でも洗濯でも料理でも、ある程度の日課は問題なくこなせるようになるはずで、そうなれば一週間もせずに退院の通知をもらえるはずだった。が――
「ラズリ……あなただけ、また赤点ね」
正午すぎ、ラズリは東棟の学習室で、黒板の前に立つノウェムにため息を吐かれていた。ミントグリーンのパジャマをいつもの真っ白な制服に着替え、学習室の教壇に立っている。
すでに他の患者たちは日課を終えて出て行き、学習室はがらんとしていた。
「私はあと何回、あなたに分数の掛け算を教えればいいのかしら……」
ノウェムはいつも通り呆れを隠しきれない目で、いつも通り小さく肩をすぼめたラズリを見る。ノウェムのすべらかな手につままれた解答用紙の右上には、見飽きた一桁の数字が書かれていた。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいの。全問正解するまでやり直しましょう。……私も、ラズリが終わるまで居残るわ」
「……はい」
ノウェムの昼食時間を削るのは、これで何度目だろう。申し訳なさと不甲斐なさに、ラズリのお腹は、きゅう、と鳴った。
「ラズリは何をやらせたら上手くいくのかしら。分数の計算もできない、せっかくの洗濯物を汚す、料理は焦がす、花は枯らす……。これでは南の街のどんな仕事にも就けないわ。仕事に就けるようにならなければ、退院させることはできないの、分かっているわよね?」
はい、とラズリは頷いた。そんなことは、ラズリ本人が一番分かっているのだ。養護院に二年間も暮らす人間はいない。老若男女、様々な人間が病気を抱えてこの養護院に入っては退院し、南の街に下りて新しい人生を始める。どうして病気にかかったか、病気になる前はどんな人間だったか覚えている患者は一人もおらず、気にする者もいない。それよりも、早くこの閉ざされた養護院を出て、新しい人生を始めることに必死なのだ。
だが、ラズリは違う。ラズリだけ、新しい人生を始められない。二年も養護院に閉じこもり、何度課題をこなしても退院できない。本当は誰よりも、新しい人生を望んでいるのに。
「ノウェム、わたしは……」
ラズリは二年間で何度も問いかけた問いを、また彼女に投げる。彼女だけではなく、他の看護師、他の患者、果ては養護院の院長にまで、全ての人に問い続けてきたことだった。
「何の病気なんですか。病気になる前はどんな人間だったんですか。――なんて、もう訊かないでと私は言ったわ? ラズリ。何度も言うけれど、それは考えても仕方のないことなの。それよりも日課に集中してちょうだい。あなたにできることは、それしかない。だから、これ以上失敗しないで……」
ノウェムは用紙をラズリの机の上に置くと、黙って椅子を指した。その頭上で、午前の日課の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
ラズリも黙って指示された椅子に座り、鉛筆を握ってテスト用紙に向かった。窓の外をちらりと見ると、中庭には今日退院する患者たちの白い列ができている。皆一様に、胸に退院者の印である銀の丸いブローチを着け、一日に一度だけ来るバスを待っていた。彼らは黒煙を上げるバスに乗り、南の街で仕事に就き、家族をつくり、幸せに健康に暮らす。それでいいのだ。何も考える必要はない。
今夜には初雪が降るとラジオで言っていたから、今日が今年最後の退院日になるだろう。退院する患者たちの表情は、銀色のブローチのようにぴかぴかと輝いている。
ラズリは、その集団から目を逸らし、再テスト用紙に答を書き始めた。鉛筆の芯が机に打ちつけられる音が、広い学習室に響いた。


午前中の日課が終わり、東棟の大食堂での昼食が済むと、午後は患者に自由時間が与えられる。
朝から降っていた雨もすっかり止み、薄灰色の雲がちらちらと切れはじめると、晩秋の微かな日差しが中庭の古びたベンチや花壇のひび割れにまで降り注いでいた。
昼の見送りを終え、まだ退院できない二十数人程度の患者たちは、めいめい好き勝手にホールのピアノを弾いたり、自室で本を読んだり、中庭で談笑したりしている。
ラズリは、普段はノウェムに字を教えてもらったり絵を描いたりして過ごしていたが、そのノウェムが見当たらない。別の看護師に尋ねると、
「ノウェムは、北の森に狩りに行ったけど」
と、そっけない返事が返ってきた。
彼女は狩りが上手いことを、ラズリはよく知っていた。短い夏から秋の終わりまでの間、ノウェムは大きな旧式の猟銃を持ち、養護院の裏手の北の森に分け入っていく。そして日が暮れるころ、大きな鹿や何羽ものウサギ、大鷲などを担いで帰ってくるのだ。ラズリは狩りに行くノウェムが本当に羨ましかったが、何度頼んでも、ノウェムが狩りに連れて行ってくれることはなかった。まだ幼いから、銃の近くにいるのは危ない、と言うのだ。
ノウェムを失ったラズリは仕方なく養護院をうろうろと、ひとりで歩き回った。洗濯も計算も上手くこなせないラズリは、読書やピアノの楽しみが分からない。だから、ノウェムの他にラズリには親しい患者も看護師もおらず、ノウェムがいないと大抵はひとりきりで自室から中庭を眺めることしかできない。そうでない時は、昼に飲んだ薬が合わなくて寝込んでいる。
しかし、今日に限って体調が万全になってしまったラズリは、部屋で寝ている気にもなれず、自室のある西棟へは戻らなかった。かといって、中庭に出て花壇や芝生を眺める気にもならない。単純にひとりでいるよりも、集団の中にひとりきりでいる方が孤独はずっと深いということを、ラズリはよく知っていたからだ。
その時、北棟と東棟を繋ぐ渡り廊下で、二人の看護師が何かをささやき合いながらラズリとすれ違っていった。二人の看護師は、ラズリに見向きもしない。
「あの新しい患者……グミはどうかしら。治ると思う?」
「さあねえ……院長が入れると言ったのだから、入れるしかないじゃない」
「でもあたし、いやだわ。まだ爪も伸びっぱなしで……」
看護師たちは口々に仕事に対する愚痴を零しながら、ラズリの横を通りすぎていく。その白い後姿を何気なく眺めていた時、不意に、ラズリはひらめいた。
(グミに会いに行こう。……あの子なら、知っているかもしれない)
グミは、北棟の特別医務室にいると聞いたのを思い出したのだ。病気にかかってすぐなら、自分がどうして病気になったのか、くらいは心当たりがあるかもしれない。
自分が昔どんな子どもだったか思い出せれば、得意なことも分かるだろう。そうしたら、退院して南の街に行ける。ノウェムのように、立派な人になれるはずだ。そして、ノウェムもそれを望んでいるのだ。
ラズリは看護師たちが廊下の曲がり角の奥へ消えていくのを見届けてから、渡り廊下を走って北棟へ向かった。

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